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2017年06月05日

厳島神社・・・白土正尚の歴史

この石碑は、大正十三年一月二十六日、安川敬一郎氏、麻生太吉氏、伊藤伝右衛門氏等の
同じ目的意識持った方々により建立されました。

明治三年福岡文武館にて、和漢字を勉強し、当時明治維新により難題であった国事や行政、教育、農業等の諸問題に自ら志をたて、代々守ってきた神職を辞め、その行政に身を委ねました。

高さ 6.06m
題字 男爵 安川敬一郎氏(現在株式会社安川電機)
撰     樫田三郎氏(嘉穂郡長)

明治十三年、当時は多額納税者にしか選挙権がない時代に、福岡県議会議員(三十五歳)に当選、二十三年には町村制施行と同時に頴田初代村長になりました。

また、明治二十七年にも頴田村長に再選され、二十九年には嘉穂郡郡会議員、同年福岡県議会議員に再選。明治三十三年、頴田村長に再選されました。

その他、箱田六輔氏と共に民選議員の設立を政府に建議しました。

明治十年頃より、その敷地面積東京ドーム約640個分の荒地や草原を開拓し、山林は、その倍の1300個分を切り開いたとされ、その先の時代を読みとる力と知識で、生きる術や教育の重要性を説き、村民の生活の安定をはかりました。それを物語るのは明治二十年現在の紀州(和歌山県)を視察し特産物のぶどうやみかん、筑後地方の視察では、びわ、梨、櫨木の苗を持ち帰り、苗木を農家に分け与えました。

そして、村民の生活を豊かにする知恵を授けたその功績を認められ岩手県、宮城県、青森県知事より褒状を授与されました。

また、明治二十六年には、害虫駆除の殺虫燈を自ら発明、数百個を実費にて制作し地方の農家に分け与え、第四回国内博覧会にて褒状を授与されました。

明治六年副戸長時代には、碓井村、貞月村、牛隈村三ヶ村の井堰用水路修築について歴代戸長が困敗し手付かずのままだった難題を白土氏が独自に取り組み、石材の運搬方法や石工事方法、また水車を設置その運転方法を考案し用水路を完成させるという偉業をなしとげ、それを村民が歓喜し後にその用水路は村民より白土用水路と名付けられました。

明治六年、新教育の必要性を痛感し、副戸長として在勤中であった碓井、貞月、牛隈、鹿毛馬、勢田、元吉の各村の中から、堀氏(碓井村)斉村氏(勢田村)を福岡伝習所へ送り、授業法を学ばせました。これは郡内における教員養成の最初でした。また村内に小学校新設を計画立案し、郡内唯一の小学校校舎を建設、その後仁保村や鯰田村、長尾村を始め飯塚、穂波、稲築の各小学校の校舎新築に貢献しました。

嘉穂郡立中学校(現在の福岡県立嘉穂高等学校)設置については、数年間郡内、県民の間を遊説し、教育の重要性を喚起し創設に力をそそぎ、貧困で学資困難の者には学費を立替え同志社大学等に四人を通学、卒業させました。

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